今回は2019年の3月にリリースされた米津玄師さんの10枚目のシングル「馬と鹿」の歌詞考察をしていきます!
ノーサイド・ゲームの主題歌として書き下ろし!
「馬と鹿」は米津玄師さんがTBS系で放送された池井戸潤さん原作のラグビードラマ「ノーサイド・ゲーム」の主題歌として書き下ろし、リリースと同時に日本で開催された「ラグビーワールドカップ2019」ともコラボを果たしたシングルです。
独特の世界観と力強い言葉で紡がれる歌詞はラグビー泥臭さにぴったりとマッチしています。
では早速歌詞の考察を進めていきましょう!

馬と鹿 歌詞考察!
ボロボロでも前に進み続ける

春と言えば「出会い」や「始まり」の季節ですが、「歪んで傷だらけ」という歌詞が春というポジティブなイメージに逆行し、痛々しい印象を受けます。
「春」という新しいことが始まるポジティブなイメージと「歪んで傷だらけ」というネガティブなイメージを敢えて対比させることで、何の期待も抱けない出会いがあったことが伺えます。
しかし「麻酔も打たずに歩いた」という歌詞から、このネガティブな出会いに対して感覚を鈍らせずに真っ向から向き合っていることがわかります。
これは傷ついてどんなに絶望していたとしても、その痛みと向き合ってみると「体の奥底」では強く「生き足りない」と訴えているからです。
痛みは生きている証でもあり、敢えて生きていることを感じるために痛みを求めているようにも取ることができますね。
また命だけではなくラグビーの試合としても考えることができます。
実際のラグビーの試合ではタックルに入った数が多いほど良いプレイヤーとされています。当然タックルに入る数が多いとその分怪我も増えますが、その怪我を押して出場している選手がほとんどです。
つまり、もう怪我をしている中で出場したラグビーの試合でもタックルに入りに行く意思として捉えることもできます。
命、ラグビー、どちらにせよ望んでいない現状で逆境の中におり、その現状を覆して前に進んでいきたいという強い意志が表れています。

何度も噛み続けてほとんど味がしなくなったガム。普通なら吐き出してしまいますが、それでも口に含み続けています。
これは求めることに対して何度も試行錯誤し、そこで最後に残ったものが「本当に大切なもの」だと教えてくれています

傷ついた逆境の中でも生きたいと願い、試行錯誤して辿り着いた本当に大切なもの。
この強く想う感情が「愛」というものでなければなんなのか、馬鹿な自分にはわからなかったという表現が為されています。
「僕は知らなかった」という表現が「馬鹿な自分」と同時に「これは愛以外の何物でもない」という強い確信も表しているように感じられます。
たくさんのものを失い、その中で見つけた本当に大切なものを「花」と表現し、この「花」は生きる希望、「夢」と考えられます。
このただ1つの「夢」を大切にしていきたいという強い意志が伺えます。
これはラグビーに置き換えても「勝利」という夢に向かうと考えることができ、チームが1つとなって「勝利」という夢に向かっていくことこそが「愛」であると捉えることもできます。
また「鼻先が触れる」「呼吸が止まる」という歌詞はラグビーで考えるとタックルに顔から入って鼻がぶつかり、呼吸ができなくなる瞬間と考えることができます。
ここから転じて前に進んでいく上での更なる障害や壁を表現しています。
今までの痛みとこの壁にぶつかった痛み、これらは自分が進んできた証、「夢」に対して努力した時間に価値を与えるものとして「消えないままでいい」と歌われているのです。

2番は1番の歌詞と対照的に弱い姿の描写で始まります。
ここでは「夢」に向かって進んでいくことの難しさ、厳しさが表現されているようです。
自分の生きる希望である夢に向かって行くことは非常に前向きなことですが、途中で挫折してしまうこともあります。
生きた証である傷跡も隠してしまい、誰かに「自分が苦しんでいる」ということに気づいて欲しいと弱気になってしまっています。
夢に向かう途中での挫折

「噛み締めた砂の味」は倒れ込んでしまった地面と考えられます。ラグビーでも倒されて砂が口に入ってしまうことがありますが、この砂の味は「屈辱・挫折の味」と言えます。
そんな屈辱や挫折を味わった自分、もしくは誰かに対して「まだ歩けるか」と励ますような言葉をかけています。
また「夜露で濡れた芝生の上」は芝のグラウンドと思われます。敢えて砂のグラウンドと芝のグラウンドを両方とも歌詞に出すことで、どんな場面でもがむしゃらに努力してきたことを思わせます。
どんな場所でも逆境に立ち、努力してきた自分自身や誰かに対して「終わるにはまだ早いだろう」と鼓舞し、泥臭く努力する大切さを説いています。
1番と比べてストレートな表現が多く見られ、逆境から夢に向かって生きる希望を見出した1番のよりも、夢の途中で諦めそうになっている2番の方が立ち上がることが簡単であると言っているようにも取れます。

この部分は仲間との決裂と考えられます。
一緒に夢に向かって頑張ってきた仲間を傷つけてしまった、絆という「愛」を失ってしまった絶望が読み取れます。
また「上手くできなかった」という歌詞から不器用さ、自分の馬鹿さ加減への失望が伺えます。
たった1つ大切なこと、「愛」を守ることさえできれば良かったのに、自分の不器用さから失ってしまった。
愛を失ってしまったことを後悔するが故に過去を悔やんでおり、「前に進む」ということを歌っている1番に対してその後悔は「あまりにくだらない願い」なのです。
他人を否定することは誰にもできませんが、本気で向かい合うが故にぶつかって決裂した仲間の魂への後悔がよく感じられます。
この2番では自分自身の行いに対して「馬鹿」と言い聞かせているような印象を受けます。

この部分では明確に「君」という二人称が登場します。これは一緒に夢に向かっていた仲間を指すのか、もしくは夢に向かいながらも挫折して諦めてしまっている自分自身を指すのかどちらかでしょう。
「踵に残る似た傷」は衝突し、決裂した自分と仲間、もしくは自分自身に残る同じような心の傷を表現しています。
踵は馬にとっては「第二の心臓」と呼ばれるほど重要な部分であり、「踵の傷」は重大な心の傷と取ることができます。
またギリシア神話では踵が唯一の弱点である不死身の英雄・アキレスが登場します。今でも「アキレス腱」として言葉が残っているのはこのアキレスが由来です。
つまり弱い部分・大事な部分を心に例え、そこに同じような傷を負ったことを表現していると言えます。
同じような傷を負っていたとしても、照らされて進んでいける「晴れ間」を進んでいき、がむしゃらに夢である「花」に向かっていく様子が見て取れます。
ここはラグビーで考えると相手のフォワードをすり抜けてゴールラインに向かっていく様子が浮かびます。
1番ではタックルでぶつかる様子が思い当たる言葉が多用されていましたが、ここでは攻撃に転じており、少しずつ前に進んでいる様子を表現しています。
再び夢に向かって進んでいく

この部分は1番のサビ部分とほとんど同じですが、唯一違うのは追い求めていた夢である「花」の名を呼ぶことを恐れている点です。
2番で1度諦めた自分がもう1度夢を目指すことが許されるのか、許されなかったとしても馬鹿な自分にはこの夢しかないという葛藤が表現されています。
ここでも不器用さや馬鹿さ加減を自覚しているような言葉が使われており、愚直に夢に向かっていくがむしゃらな様子がわかります。

この部分は2番のサビ部分と同じですが、「止まない」という言葉が追加されています。
2番での「くだらない願い」は過去への後悔でしたが、ここでは「夢を叶えたい」という願いに取れます。
1度挫折していることに加えてその夢が他人からすると無謀なもの、くだらないものであるのかも知れません。
しかし不器用で馬鹿な自分にはこの夢しかない、「夢を叶えたい」という願いは消えることはないし、もう自分では止めることができないのです。
周りを見ると自分が惨めに見えるかも知れませんが、自分を省みて本当に叶えたい大切なことに向かっていくことが本当に大切で、それに向かってただ前に進んでいくことが価値のあることだと歌っています。
ラグビーにも人生にも取れる深いメッセージが詰まった曲ですね。

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さいごに
タイトル「馬と鹿」に隠された意味。
このタイトルにはいくつかの考察が為されています。
1つは冥界の神ハデスが乗っている馬が「死」を象徴し、生え変わる鹿の角が「再生」を象徴することから「1度諦めた人生をやり直す」ことという説です。
また馬が「富・権力」を象徴し、鹿が「幸福」を象徴することからポジティブなイメージとして「希望」を歌ったものだという説もあります。
米津玄師さん本人は「自分でも馬鹿みたいな曲だと思っていて、これしかないと思った」と明確な理由を述べてはいませんが、歌詞には2人の人物、もしくは自分自身が2人出てくるような部分があります。
またラグビーに例えられることから、「同じ目標に向かって馬鹿みたいに進んでいく自分と仲間(もしくは自分自身)」という意味で「馬鹿」を「馬と鹿」に分けたのではないでしょうか。
曲全体を通じて「前に進んでいく」というメッセージが非常に強く、人生を諦めてしまった人の背中を力強く押すような曲に感じました。
言わずと知れた天才・米津玄師さんが今後どんなメッセージを歌うのか、目が離せませんね!