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天国へようこそ【東京事変】歌詞の意味を考察!如何様にでも解釈可能な歌詞を堪能する!

今回は2011年6月29日にリリースされたアルバム「大発見」の1曲目に収録されている「天国へようこそ」の歌詞考察をしていきます。

「天国へようこそ」は、ヴォーカルの椎名林檎さんが作詞・作曲を手掛けました。

では早速歌詞の考察を始めていきましょう!

天国へようこそ 歌詞考察

青二才な口先だけの賢者

ことばを手にした我等は果たして青き賢者か
それなら浮世は定めし取るに足らぬ事だろう

本楽曲の歌詞を紐解くにあたり、分かり辛い言葉をひとつひとつ見ていきたいと思います。

先ずは「青き賢者」というフレーズに注目しましょう。

賢者」とは、広辞苑によると、かしこい人。賢人。という定義の他に、仏道を修行して、いまだ悟りを得るまでにはいたっていない人。とあります。

また「」は「若い」「未熟の」といった意味合いがありますので、このフレーズはまさに未熟な悟りを得られていない人、という解釈で間違いないでしょう。

私たち人類は「ことば」を得て「賢人」であると言ってよいようにに思えます。しかし、まだ未熟で悟りを得られていない存在なのでしょうか?と問いかけています。

次に「浮世」とは世間という意味で、「定めし」とはかならず。きっと。おそらく。たぶん。といった定義が広辞苑でされています。

もし私たち人類が、言葉を得て賢い存在だと仮定すればこの世間はおそらく、問題にもならない、問題として取り上げる価値すらないものだろう、と言っています。

酔醒めの水よりも容易い清しさ
誰でも何とでも云えるの口では

「酔醒めの水」は、酔いを醒ます為に飲む水ですが、その水よりも清々しくあっさりしている、とあります。

また「容易い」は軽々しく、といった意味もあり、「清しい」=「清々しい」であり、あっさりしている、ためらいがない、という意味もあります。

「誰でも」「口で」は「何とでも云える」ものですし、軽々しく何のためらいもなくすらすらと無責任な言葉を発することが可能なのが人間というものです。

人間は言葉を得て、賢い高等な生物と言えるでしょう。

しかし、口からスラスラと偉そうなことを言ってしまうこともあり愚かな一面も持ち合わせています。世の中を「取るに足らぬ」と舐めてかかっている人もいるでしょう。

そんな人間という存在は、賢いどころか、まだまだ未熟で「青」い存在である、と言えるのではないでしょうか。

ことばすら要らない悟りを得た聖者

ことばを失くした我等は差し詰め聡き聖者か
それなら浮世は定めし見透(みえす)いている事だろう

ここでは前出の「青き賢者」の対をなす「聡き聖者」という言葉を見てみましょう。

「聖者」(読み:しょうじゃ)は、広辞苑によると、煩悩を離れて、正理(正しい道理の意)を悟った人、とあります。

そして冒頭での「ことばを手にした我等」と対比して、ここでは「ことばを失くした我等」とあります。

冒頭とは逆に、「ことばを失くした」つまり言葉など用いずとも意思疎通が出来うる存在であるならば、理性ある、賢く、悟りを得られた「聖者」と呼べるのではないか、と言っています。

仮に私たち人間が「聖者」ならば、恐らくこの世のことも全てお見通しといった感じなのだろう、とたたみ掛けています。

さらば光よ
さらば陰よ
決して混ざらぬ二つがくちづけを交わす刹那(とき)

ここでは「」と「」という相反する二つの言葉が出てきます。

この二つは「決して混ざらぬ」とあるように、相容れないものの例えとして提示されていると思われます。

ここで「刹那」という言葉が出てきますが、広辞苑では仏教用語で極めて短い時間。一瞬間。と定義されています。

そんな相反する「光」と「陰」がほんの短い一瞬間に「くちずけ」をして交わるという、ありえないことが描かれています。

相反する、普段なら出会うはずのない二人の人間が、ほんの短い時間に出会い交わった、という解釈が可能かと思います。

さらば」とありますので、それぞれ違う方向へと向かう去り際に、ほんの一瞬だけすれ違い、「くちずけを交わした」「とき」が存在したということでしょう。

また一方で、歌詞にある「二つ」は二人ではなく「二つ」の異なった性格という解釈も可能かと思います。

一人の人間の中に「二つ」の全く異なった性格が宿っているという精神的に危うい状態を描いている、ともとれるかと思います。

静寂に包まれた天国にいる私

『最初で最終(さいご)の永遠』になるさ
花へも団子へも色めき過ぎたわ

前述の相容れない筈の対極の二人(若しくは二つの性格)が一瞬だけ交わった「とき」というのが、『最初で最後の永遠』になる、とあります。

相容れない筈の二人(若しくは二つの性格)が、奇跡的にたった一度だけすれ違いざまに交わったという事実があったことに満足しているのでしょうか。

次に「花へも団子へも」とあります。この場合、「」は外観、風流を指し、「団子」は実利、実質を指します。

外観にも実利にも関心を寄せ過ぎてしまったと、少し後悔をしている様子が伺えます。

タバコの煙よりも間緩い静けさ
嘘でも本当でも今では私に梔子

「間緩い」(読み:まぬるい)という言葉がありますが、広辞苑ではすることが遅くて間に合わない。てまどって遅い。とあります。

この言葉の前に「タバコの煙」とありますので、その煙が恐らく二人(若しくは二つの性格を有する一人の人間)のいる部屋の中でゆっくりと立ち上って長くそこに留まっている様が想像できるかと思います。

そんな「タバコの煙よりも」ということですので、そこにある「静けさ」は部屋の中で留まって中々消えないタバコの煙よりも長い時間留まったまま、つまりずっと静けさが漂っている、いうことでしょう。

そして、ラストに「梔子」(読み:くちなし)という言葉が出てきます。

花のくちなしのことですが、広辞苑によると”果実が熟しても口を開かないから”くちなし”といわれるようになったようです。

また、くちなし=口無し、と言うことで、「死人に口なし」という言葉を連想しました。

ここまで見てきて、ラストのフレーズ「今では私に梔子」が、「私」=「死人」、「梔子」=「口無し」と、現在私は死んでいると解釈できるように感じられます。

更に、くちなしの花は一説では「天国に咲く花」と言われているようです。

本楽曲のタイトルには「天国」という言葉が含まれており、敢えて「梔子」という言葉を使ったとも考えられるでしょう。

さいごに

本楽曲「天国へようこそ」の歌詞では仏教用語が数々使われており、難解な印象が拭えません。

またラスト一行の解釈を「私=死人」としたとしても、肉体的な「死」を表すのではなく、精神的に二つに分裂してしまったという精神的な「死」(=崩壊)を表している、とも考えられます。

相反する二人が出会い束の間の交わりを持つことであっても、精神的な崩壊を迎えて(=狂って)しまっても、どちらにしてもそこは静寂が永遠に漂う「天国」であることには変わりないのかも知れません。

様々な深読みが可能独特の世界観漂う「天国へようこそ」。

本楽曲を手掛けた東京事変の今後の楽曲にも注目したいですね!

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