今回はKing Gnuさんが2020年12月2日にリリースした楽曲である、千両役者の歌詞を考察していこうと思います!ドコモのCMソングとしてもおなじみのこの曲は一体どのような意味なのでしょうか?
三文小説とのダブルタイアップを果たした
大ヒットを記録したアルバム【CEREMONY】以降初のリリースとなったこの楽曲は、『三文小説/千両役者』と、2タイトルを収録しています。
三文小説も日本テレビ系土曜ドラマ「35歳の少女」の主題歌に抜擢されており、千両役者とともにダブルタイアップを果たしています!超売れっ子のKing Gnuさんだからこそなせる記録ですよね
作詞作曲を担当した常田さんは自身のTwitterにてこのようにコメントしています
感染症の大流行により、想像もしていなかった生活を強いられている私達に向けたメッセージが込められている楽曲のようですね。アーティストらしく、曲で鼓舞してくれるなんて、とてもかっこいいですよね
「千両役者」の意味は?
曲のタイトルでもある「千両役者」という言葉、あまり聞き馴染みがないですよね。一体どういう意味なのでしょうか。
1 技芸・風格ともに備わった人気役者。
2 技量に優れ、きわだった活躍をして周囲を魅了する人。「サッカー界の千両役者」
goo 辞書より
主に、江戸時代の歌舞伎役者で、人気を博していた俳優に使われる言葉のようですね
一年の給料が千両を超えるほど人気。というのが由来のようですね。
ちなみに当時の千両は現在の価値で1億3000万ほどだそうです!とてつもないお金持ちですね(笑)
このタイトルと歌詞は一体どの様に結びつくのでしょうか。それではさっそく、歌詞の考察をしていきましょう!

【千両役者】歌詞考察
千両役者を目指す人生は甘くない

この楽曲はタイトルが「千両役者」と歌舞伎の世界の言葉を用いています。そして、歌詞も同様に、古風で歌舞伎の世界をイメージしたような内容になっています。
出鱈目な劇という言葉も、そのまま受け取ると歌舞伎の舞台を表現している言葉のように思えますが、これは現代を生きる私達の人生、という解釈もできます。
感染症の流行により、人生設計が大きく狂った人もいるでしょう。
少なくとも、こんな社会になることを想定できていた人は一人もいません。そんなでたらめな劇のような生活でも命をつないでいくしか無いのです。
新しい仕事、新しい学校、新しい生活、これまでとは違う環境に迷って行き着いても、また振り出しからのスタートです

ここでの吊り橋とは、私達の人生そのものを表しているのではないかと解釈できます。
どれだけ危なくても、一度歩きだしてしまったら、渡りきるまで歩き続け無ければなりません。
たとえ千鳥足で歩みが遅くとも、落ちないように歩くのです。
吊橋から落ちてしまったら、何も言えず、何も残らないでしょう。まさに、「死人に口無し」です
これは吊橋(人生)から落ちていく人に対して、少し冷たいような印象も感じ取れます。
しかし、本当に伝えたいのは「迷って止まって死ぬくらいなら、不格好でもいいから人生を歩き続けようぜ!」という私達への応援メッセージなのではないでしょうか
小さいことに囚われていてはいつまでも成長しない

緞帳(どんちょう)とは、舞台の幕のこと。そして当代(とうだい)とは今の時代のことです。
食った食われたの茶番劇とは、日常生活でのささいないざこざやトラブルだと解釈できます。
茶番劇というくらいですから、傍から見たら無意味で重要でもなんでも無いものですよね。
そんな小競り合いで勝っても、それは仮初めの繁栄でしかありません。命を燃やすのははもっと重要なことであるべきです
茶番劇しかできないような貧弱な役者はさっさと幕を閉じてしまえという意味が読み取れます。
私達も、小さなことにくよくよと悩んでしまうことがありますよね。そんなことに命を燃やしても、千両役者には到底なれないでしょう。もっと大きい舞台で戦うべきなのです

ここには、歌舞伎用語がふんだんに用いられています。
泥仕合とは舞台上に泥田をつくり、そのまわりを立ち回ること。喜劇とは滑稽で笑いを起こすような劇。そしてカタストロフィとは悲劇的な結末、または大きな変化。
また、歌舞いては「かぶいて」とよみ、歌舞伎を演じるという意味です。
このことから、泥臭い地道な道のりでも、続けていれば誰かを笑わせ、悲劇を覆すような結末になる。という解釈ができます。
このご時世で、自分のこれからの未来が「喜劇」になると予感した人はいないでしょう。
悲劇的な結末(カタストロフィ)を誰もが想像したはずです。しかし、マイナスの想像をしていても何も始まりません。
泥仕合でもいいから、今晩だけは先のことを考えずに千両役者になって踊ろうというメッセージが込められているのではないでしょうか。
役者としての人生は価値のあるものだったのか

火の滅する時というのは人生の緞帳が閉じる時(死)と読み取れます。
そのときに見る走馬灯はどのようなものでしょうか。
悲劇に怯え、何もしなかった人。小さな小競り合いにしか命を燃やせなかった人の走馬灯は価値のないものです。
人生とは、自分の目で見てきた景色の流れです。自分がしてきたことが、値千金だと思えるのなら、それはいい人生だったと言えるでしょう。
走馬灯が絶景になるように、私達は生活していかなければなりません

この歌詞は、それぞれ文節の切れ目が大舞台(たい)、関係ない、頂戴(だい)、居たい、と韻が踏まれています。とても心地のいいリズムだと感じるのはこのためでしょう。
人生では様々な分岐点があり、自ら決断をして人生の方向を決めていきます。そして、自分が大きく行動しなければならない大舞台もあるはずです。
受験、就職、告白などの大舞台では自分が有名か無名かなんて関係ありません。自分を信じて行動するだけなのです。

この歌詞は比較的、現代的ですね。
他人からの評価ばかりを気にしていては、自分の人生は楽しめません。そんな人は千両役者に離れないでしょう。
後ろを振り返り後悔するのではなく、これからも青臭い人生を生きるための抗体をくれ。という潔い気持ちが読み取れます。
千両役者はそういった真っ直ぐな人がなれるのでしょう。
いつの時代も有名になると陰口も増える

ここからは、千両役者のように人生を謳歌しようとする自分に対して、とやかく口を挟んでくる周囲の人間に対する敵意が読み取れます。
どれほど優れた役者であっても、あーしろこーしろと口を挟まれるものです。そんなやじにいちいち耳を傾けていてはキリがありません。
これは現代で言うところの、誹謗中傷を比喩しているのではないでしょうか。
顔の見えないところから強気に口を挟み、都合が悪くなると逃げる。そんな人達への常田さんはこの歌詞に込めているのだと思います。
それにしてもど阿呆とはなかなかパンチきいた言葉ですよね

この歌詞でも、引き続き周囲の人達に対する意見が述べられています。
俺は千両役者だぞ、そんな俺に口を出す貴様は一体何様なんだ。
ここでもラップのように韻が踏まれていますが、ラップ調とdisという二つの要素をうまく曲に取り込んでいますね。
歌詞もあえて現代風にしているのかもしれません。
人生を振り返る時

千両役者として活躍した人生を、死の間際に振り返るとどのようなものだったのでしょうか。
この歌詞は、死の直前に自らの人生を振り返る描写が描かれているのでしょう。
「その様まるで お祭り土砂降り」というくらいですから、それは目まぐるしく、きらびやかで怒涛の人生だったのでしょう
そして、人生の勝ちを図れるのは自分だけです。自分が振り返る人生が絶景であればよいのです。

この曲は、千両役者という歌舞伎の世界のスターと、現代を生きる私達の生活をうまく掛け合わせたメッセージ性の強い歌詞でしたね。
私達には歌舞伎はあまり馴染みのないものかもしれませんが、長い歴史に刻まれた役者たちの人生からは多くの学びがあるでしょう
全員が千両役者になれるような世界はありません。途中で諦める人、最後まで諦めないけれど、芽が出ない人、千両役者に嫉妬し、陰口ばかり叩く人。
正解、不正解は無いですが、人生の緞帳が降りる時、客席は笑っているのか、泣いているのか。自分は自分の劇に満足したのか。
終わらない劇なんてありません。それは人生も同じでしょう。終りがあるからこそ、それまでにどのように演じ、幕を閉じるのか。このご時世だからこそ私達はより深く、考える必要があるのかもしれませんね。

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最後に
今回はKing Gnuさんの千両役者の歌詞考察をしていきました!
漢字がおおく、また、歌舞伎の専門用語なんかも多く使われている歌詞なので、考察が難しいと思います。
私達が普段使っている言葉も、語源は歌舞伎用語だった。なんてこともよくあるので、歌舞伎の世界を勉強するのも面白いかもしれませんね。
他にも、いろいろなアーティストの歌詞考察を行っているので、よければ他記事も御覧ください!